第1130回 会員卓話 「私の履歴書」パートIII

開催日時 2015年5月22日(金)
開催場所 西尾信用金庫中央支店2階
合唱曲 それでこそロータリー
卓話者「私の履歴書」 榊原利夫君、下谷七郎君、新開雄二君、鈴木正司君
お客様
司会進行杉浦正昭君

会長挨拶

 
 皆さん今日は、すがすがしい季節となりましたが一日の気温差が大きい為、体調管理には充分注意して、熱中症、風邪等引かない様に致しましょう。

 それでは、今日のゲスト及びビジターを紹介します。ゲストとして「私の履歴書」パート3榊原利夫君、下谷七郎君、新海雄二君、鈴木正司君の4名です。楽しみにしております。ビジターは先日孫と一緒に名古屋港水族館へイルカショーを見に行ってきました。観客席は満席のような状況でイルカショーが始まると子供たちは歓気の声をあげたり手を叩いたりして喜んでおりましたやはり水族館の一番人気はこのイルショーではないかと思います。

 しかし、20日に「日本動物水族館協会がイルカの捕獲に関して従来の和歌山県太地町のおける「追い込み漁」による捕獲を断念し水族館の繁殖による飼育に方向転換するとのことです。この経緯は世界動物水族館協会が日本の水族館で飼育されているイルカの調達方法は世界動物園水族館協会の倫理規定に反するとして改善、除名勧告に対して追い込み漁を通じたイルカの調達や輸出への関与を禁止し、飼育イルカの繁殖を推進する方針を決定しました。それによって子供たちが楽しみにしている水族館のイルカやイルカショーが減るのではないかと心配しており今後の動向に注目して行きたいと思います。

出席報告
会員総数 出席免除者 本日の出席会員数 MU数 本日の出席率(%) 修正出席率(%)
58 31 40   74.07  

スマイル委員会報告

[後藤利之会長]
私の履歴書発表の皆様卓話楽しみにしております。先日、御開帳されている信州の善光寺へ参拝してまいりました。今月一杯とのことで大変混雑しており1か所見学するのに90-150分の待ち時間があり3か所廻るのに半日かかりました。

[鈴木善和幹事]
会長杯ゴルフキャンセルしてご免なさい。会員卓話は面白い。今日もよろしくお願いします。

[新海雄二君]
欠席ばかりで申し訳ありません。いじめないでください。

[大須賀慶一君]
昨日の会長杯ゴルフコンペで久しぶりに80台で回れ久しぶりに優勝をさせて頂きました。丸目君、光君、経男さん有難うございました。

[磯貝惣一郎君]
鈴木幹事に歩々の会の役員になって頂きました。今度で7度目です。死ぬまでお願いします。


その他委員会報告

出席報告:鈴木正司委員 スマイル:二宮誠二委員 社会奉仕委員会:榊原利夫君
幹事報告:鈴木幹事 米山功労者表彰

会員卓話 「私の履歴書」 パートIII 榊原利夫君


 私は昭和24年4月4日生まれ、4人兄弟で女が3人男が1人、まさしく、おかまさんという状況の中で育ちました。外見は男らしいのですが、内面はどちらかというと女だと思っています。家は鉄工所でしたのでゆくゆくは継がないといけないだろうなという思いを持ちながら育ってきました。

 勉強は殆どしませんでした。平々凡々と育ってきましたので今になってみれば、しまった、勉強をしなくてはいかんかったと思っております。小学校高学年からソフトボール部に入りました。7年間、汗と泥にまみれたそんな生活でした。本当は辞めたかったのですが、辞める勇気もない、正に4月4日生まれだと思っております。

 卒業し、約6年程デンソーさんの方でお世話になりました。大企業は組織はしっかりしているし、バックボーンを背負って仕事をしているという事は凄いと感じました。生産管理で部品の発注、調達をやらせて頂いていました。そこで嫁さんをもらい家へ帰ってきて幻滅をしました。

 会社も150人程の規模になっていたのですが、まるっきり組織として機能していない、絵に描いた餅でショックを受けました。これからが私の本領発揮かなと思い、現在に至っております。しかし基本的に私自身、強い事は言えません。私が会社を運営する中で、皆さん方は甘いと言われるかもしれませんが一つのポリシーがあります。

 アットホームな会社を目指して進めています。上から目線でなく、目線が一緒。従業員と色々な面で一緒に話が出来る雰囲気を持ちながら会社運営をしていきたいと思っており、これが私の信念で今日に至っております。

 皆さん方の中には、この激動の中でそんな甘い感覚ではダメだぞと言われる方もおられるかと思いますが、私自身はそんな思いを持って会社経営が出来れば良いと思っております。そんな事で、4月4日に生んでもらって良かったと親に感謝をしている昨今です。

 これからも皆さん方とゴルフを第二の人生ではないですが、第二の青春を謳歌するべく楽しくやっていきたいと思っておりますので一つよろしくお願い致します。


「私の履歴書」 下谷七郎君

 
 私の履歴という事で話すのは4回目となります。生まれは知多市です。昭和17年生まれですので今年で73歳になります。兄弟は9人でその7番目という事でこの名前を付けられました。

 家は百姓をやりながら冬は海苔養殖をしておりました。戦争の最中に生まれましたので、兵隊に行く覚悟で親は生んだのではないかと思っております。非常に厳しい時に生まれ、家も貧乏でしたので色々な事をやりました。

 小学校4年に入って直ぐ新聞配達をしました。中学2年迄朝刊、夕刊を配る事を続けていました。一番辛かったのは朝早く起きる事でした。そして新聞配達をしながら集金も毎月していました。そのお金で学校で欲しい物は全部買っていました。そういう事が私の生涯の原点ではないかと思っております。

 新聞配達を頑張ってしておりましたので勉強の方はなかなか進みませんでした。中学に進み、なかなか部活が出来なかった事が辛かったです。また農家の手伝いもしており、乳牛も3頭程飼っておりましたので乳搾り、冬は海苔採りもしました。今でこそ苦労とは思わないですが、その頃は嫌でした。

 中学卒業で早く働こうと思っていたのですが、なかなか就職が難しい時代でしたので、就職と高校進学の両方を書きました。就職に滑ってしまいましたので学校へ行く事になりました。その学校はちょっと特殊な学校で、味噌・醤油・酒の発酵の学科でした。そこから岡崎のマルサンへ就職をしました。そこでも色々な事をしました。

 そうこうする内にある人の紹介で相生みりんに入りました。碧南からこちらへ移る時に私が全部段取りをし移ったのですが、その時に夜のアルバイトで鉄工所へちょっと行った関係で今の鉄工所を始める事になりました。

 色々な事をやってきたお陰で仕事を始めるという事は始めやすかったです。本当はもっと遠くへ行きたかったのですが、ここで捕まってしまいましたのでここにおる様になりました。

 最後に皆さんにお願いと感謝をしたいと思います。実は私、皆さんの顔が一切わかりません。闇の中で話をしている感じです。3年程前からちょっと酷くなりまして、3年以前に入った人の顔はわかっておりますがそれ以降に入った人の顔はわかりません。皆さんに迷惑をかけております。声を掛けて頂かないと誰だかわかりません。出れる限りは出ますが、皆さんの活動の手助けはなかなか出来ませんのでよろしくお願いします。


「私の履歴書」 新海雄二君

 
 私は平坂生まれの平坂育ちで、今も平坂で働いています。3人兄弟の真ん中でどうでも良い人間でして、縁あって岡崎の方へ行きました。そこは以前、額田郡岡崎村だったそうです。昭和3年に岡崎市と合併をしたそうですが、その時の村長さんがうちの曾おじいちゃんだったそうです。

 私は小さい頃悪ガキで、親父に離れた物置に閉じ込められました。小学校の3年の後半から剣道を始めました。後輩には吉良観の山本君もいます。彼とは小中と浅岡先生というスパルタの先生に大変絞られた仲です。心技体とは言いますが剣道はパワー勝負で握力・腕力がなければ強くなれません。

 私はまだ発展途上で未熟でしたので団体の選手にはなれませんでしたが、私の年代は非常に強く、小学校では全国大会で優勝しており、中学校でも全国大会で優勝しております。

 それから西尾で剣道が盛んになったきっかけではないかと思いますが、その功績は浅岡先生と以前卓話にみえた加納さんの詩吟の先生である青山要吉さんだと思います。あそこに3人兄弟がおり上2人がよく学校に指導に来ました。

 浅岡先生と青山兄弟が来ると、体育館がシーンと緊張に包まれます。非常に恐かったです。小学校の時に刀を持ってきまして「お前達これを振れ、この刃を触るなよ、切れるから」と言われビビっておりました。

 中学校2年の時に初段を取りました。高校になったら2段、やめて3段を取ろうと思っていました。3段を取ると公式の審判員が出来ます。しかし2段を受けようとした時が丁度文化祭の時で、文化祭を休んで受けさせてもらえなかったのでそれから段々剣道の熱が薄らいでいきました。

 それから大学に進み、親父から大学時代は戻って来いと良く言われました。他所で就職しようと思っておりましたが、オイルショック明けで就職難、やむを得ず自分の家に戻ってきました。最初に掛かったのが佐久島の小中学校校舎新築工事、職人と一緒に毎朝渡船で朝から晩迄、何ヶ月も行った覚えがあります。

 そうして仕事を覚えていき今日に至ります。今の夢としては、東京オリンピックが開催されますが、当社も最近、関東のメーカーの下請けで押さえてありますので、関連施設がやれたら良いなと思っております。


「私の履歴書」 鈴木正司君

 
 18歳、19歳の頃に限ってお話しします。西尾幼稚園、西尾小学校、西尾中学校、西尾高校と親のお陰で何不自由なく過ごし、そのまま大学受験という時に落とし穴が待っていました。

 大学受験の健康診断を高校3年の12月位に受けた時に胸に陰があるとなり、精密検査を受けたら結核だと判明し、さてどうするかと話し合いになり、結局、長野県富士見町にある富士見高原療養所に行く事になりました。

 当初とんでもなく嫌でした。結核というイメージの悪さ、仲間は意気揚々と未来に向かって進んでいるのに自分1人結核療養所に行くという焦燥感、孤独感、ネガティブな気持ちで一杯でした。予定では1年療養し翌年大学受験をする予定でした。既に不治の病では無かったのですが、昨日迄食事を一緒に取っていた人が亡くなられたとかそういう状況が一杯ありました。

 当時自覚症状が何も無いので見た目が病人ではない訳です。紅顔の美少年としてもの凄く可愛がってもらいました。最初はダーティーなイメージでしたが1~2ヶ月するとだんだん良い所に変わってきてました。患者さんが天気が良いと4~5人でパーティーを組んで登山をしているんです。

 入院している感じが全く無く、山登りをしても正面切って医者が許可するのではないのですが、元気なら行っても良いよという状況で、私は西高登山部のキャプテンでしたので見る間にベットの下は登山道具で一杯になりました。本当に藤村の詩にある様な状況が周りに全部ありました。

 患者といえども周囲の人達は敬遠はせず、町に受け入れてくれていたと思います。そうして4月に大学へ行こうと思っていたら、医者がもう半年このまま療養を続けた方が良い、そうしたら再発が無くなる迄治るからという事で大学は休学の手続きをしました。

 そこからはもう天国です。東京の大学へ行っている友達が2~3日泊まって遊んでいってくれたりした時は、看護婦さんを4~5人集めておいて合コンをしたりと本当に楽しく過ごしておりました。今日は私の履歴という事で、ごく一部を切り取ってお話しさせて頂きました。


詳細はホームページをご覧下さい。 [http://kirara-rc.jp/kaihou.php]