第1142回 テーマ「三河吉良氏と西尾について」

開催日時 2015年8月28日 金曜日
開催場所 西尾信用金庫中央支店2階
合唱曲 それでこそロータリー
卓話者西尾市役所商工観光課 主任主査 齋藤俊幸氏
ビジター山﨑秀夫君(西尾R.C.)
お客様
司会進行柴川和義君

会長挨拶

 今日は久しぶりに西尾商工会議所会頭の杉田君が出席してくれました。ビジターは、西尾ロータリーの山崎秀夫君です。スピーカーは西尾市役所商工観光課主任主査の齋藤俊幸さんです。

 先週末から今週にかけて株式相場は大荒れでしたので、今日は株の話をします。昨日、GPIF(年金積立金管理運用独立法人)の6月末の運用実績が発表されました。配布した資料の通りの実績ですが、2枚目の資料の運用資産の構成割合をみると、国内債券37.95%、国内株式23.39%、外国債券13.08%、外国株式22.32%、短期資産3.27%となっています。

 一方、GPIFの基本ポートフォリオは、26年9月までは、国内債券60%、国内株式12%、外国債券11%、外国株式12%、短期資産5%でしたが、26年10月より国内債券35%、国内株式25%、外国債券15%、外国株式25%に変更になり、これが株高の要因になっていましたが、先程の6月末の資産割合をみると、ほぼ、新しい運用比率への組み換えが終わったと思われます。

 と言うことは、株が上がると構成比率も上がりますので、高値を追うような買いは入らないといえます。また、株が下がると、株式の構成比率も下がりますので、下値では買いが入ることになります。ですから、大きな値上がりも期待できないが、大きく値を崩す状況でもないと私は思っています。

 ただ、国家公務員、地方公務員、教職員の3共済がこの10月よりGPIFと一体運用されることになっており、その運用資金50数兆円が加わることになります。今年の2月以降、一体化に向けてGPIFのポートフォリオに沿うよう資産構成を変えてきていると思いますが、残りがどれくらいなのかは知りません。ただ、一体運用が始まれば、株への投資余力は増えると思います。

 私たちは、儲かっている株は簡単に売れるのですが、損をするとなかなか売ることができません。これは、行動心理学でも証明されています。ですので、「コツコツ、ドカン」になります。コツコツ稼いでドカンと損をするという意味です。私がおすすめする株の買い方は、持っている株を金額ではなく、株数で見て、その株数を増やすことを目指すという買い方です。これだと株が下がってもそんなに腹が立ちません。

 また、毎年同じ金額を株に投資していく買い方です。ドル平均法といいますが、例えば、毎年100万円ずつ株を買います。株価が下がればたくさん株を買えます。株価が上がれば買う株は減ります。こうすると平均は安くなり、そんなに損をすることはないと思います。以上株のお話でした。

出席報告
会員総数 出席免除者 本日の出席会員数 MU数 本日の出席率(%) 修正出席率(%)
57 35 46   88.46  

スマイル委員会報告

[磯貝総一郎会長]
齋藤俊幸様、今日は西尾の歴史と観光の話楽しみにしております。宜しくお願いします。

[磯貝総一郎会長]
相撲観戦の素晴らしい写真有難うございます。嫁さんとのツーショット久しぶりですが、すきま風も写っているようで心配です。

[三浦隆司幹事]
三河吉良氏と西尾について大変興味深いお話、齋藤俊幸様本日はよろしくお願いします。

[大山勝男君]
早朝、町内の子供会のラジオ体操に久しぶりに参加してみました。自分では得意な体操と
自負しておりましたが体が曲がらずついていけず孫たちに笑われてしまいました。皆さん年ですな-。

[長谷収一君]
少し遅めの御礼スマイルです。誕生日お祝いのロータリータオル有難うございました。

[野口要二君]
先日のウインターテナーのコンサートにお忙しい中おいで頂いた
皆様有難うございました。今後ともよろしくお願いします。

[杉田芳男君]
久しぶりの例会出席です。除名処分されないかと心配しておりました。斉藤俊幸様本日の卓話よろしくお願いします。


卓話

「三河吉良氏と西尾について」 (西尾市役所商工観光課 主任主査 齋藤俊幸氏)


卓話者紹介:杉田芳男君

卓話者:齋藤俊幸氏

齋藤氏(左)と磯貝会長
 
 今日は三河吉良氏と西尾について、三河吉良氏、これは後に足利氏の一門、忠臣蔵で極悪人にされた吉良上野介善央の先祖の話を中心にお話をさせて頂きたいと思います。

 足利氏から吉良氏になり今の西尾を治めました。この西尾は元々吉良荘という荘園の区域だったという事を頭に置いて頂きたいと思います。吉良荘という語源は八ツ面山から雲母(キララ)が取れた。これが語源だと言われています。古い絵図では八ツ面山を吉良山とか雲母山と書いてキラヤマと読ませておりました。

 足利一門の系図を付けさせて頂きました。吉良氏は足利一門、足利氏の分家筋にあたります。足利氏の第1代、義康は平安時代の末期1156年に保元の乱が起きますが、ここで源頼朝の父親、義朝や平清盛らと一緒に活躍をした人物です。2代目は義兼で大体鎌倉幕府をおこした源頼朝と同世代になります。

 西尾と関わってきたのが3代目の義氏です。三男の義氏が足利氏の家督を継いだのですが、これは母親が執権北條氏、北条政子の妹で、鎌倉時代は母方の家柄で跡取りが決まっていたというのが理由です。そして承久3年、1221年承久の乱が起こります。後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒してしまえと起こした乱です。この戦いの結果、鎌倉幕府が勝利をし、足利義氏も東海道の大将軍として朝廷と戦い勝利しました。この承久の乱から武士優位な時代が始まります。この承久の乱の勝利の勲功として三河守護職、額田郡や吉良荘の地頭職という勲功を得て西尾に関わってきます。

 なぜ三河にこの人物を置いたかというと、足利氏自体が鎌倉幕府の有力な御家人でした。三河より西は京方で境目の土地、敵方との接点でしたので幕府としても有力な人物を置きたかった。そこでこの足利義氏が三河国守護職吉良荘地頭職にり、義氏としても三河に強固な基盤を作る必要がある為、自分の一門を三河にタイドさせる必要がありました。

 系図を見て頂くと吉良、仁木、細川、戸ケ崎、荒川、一色、豊田等三河の地名を名乗る足利一門が大挙して発展していきました。長男が吉良荘を継承して三河吉良氏となっていきます。三男の義継も吉良を名乗りますが、足利尊氏の時代に奥州、東北の地に出向き、今の東京世田谷を本拠としたので、関東吉良氏、武蔵吉良氏、世田谷吉良氏と言われ、吉良には2系統あるという事を覚えておいて下さい。足利氏の本流を継いだのは二男の泰氏で、これも母方が北條氏であったため長男の長氏は継げませんでした。泰氏、頼氏、家時、貞氏ときて5代目に室町幕府を開いた足利尊氏です。その弟が直義です。

 長氏が拠点としたのは西野町だと思っています。戦国時代になり西尾城に移ってきました。長氏(1210ー1280年)の子、満氏は上町の実相寺を文永8年(1271年)に建立した人物です。吉良氏を継いだのは貞氏の弟、貞義です。足利尊氏が鎌倉幕府を倒幕しようと相談した相手になります。一門の重鎮である吉良氏の賛同なしでは謀反は起こせないという事になろうかと思います。4代目が満義、足利尊氏と同世代で一緒に全国を回っています。

 5代目が満貞、南北朝時代で観応の擾乱が起こります。吉良氏は鎌倉幕府の御家人筋ですので直義側につかざるを得なかった。最初は直義側が優勢だったのですが、直義は鎌倉で尊氏に殺され、北朝が勝つのですが、吉良氏は直義が亡くなってからも南朝に下り尊氏と戦ったという暗い歴史があります。この時に負けた直義についたから吉良氏というのは守護大名、戦国大名として発展する事はなかったと思います。しかし血筋は良いのでそれなりの地位は得ていたと思われます。

 この満貞を見限って吉良氏の一部が新たに一家を起こしたのが東条吉良氏です。吉良町班目に東条城がありますが、西条が本流でこの時のいざこざで一家が新たに起こったので仲が悪かったと言えます。満貞は最終的に尊氏が亡くなってから北朝に戻る事を許されます。6代目は俊氏、7代目は義尚でこの時代に室町幕府で1441年(嘉吉元年)6代将軍足利義教が赤松満祐に殺され、一時将軍が不在になりました。

 その時に将軍の代行をしていたのが吉良義尚だという記録があります。吉良氏は将軍の代わりを務める様な家柄であった様です。8代目が義真、その時代は応仁・文明の乱が勃発します。東条吉良氏と西条吉良氏がそれぞれ山名、細川方に付き争った歴史があります。9代目が義信、吉良氏はこの西尾区域以外にも浜松にも領土を持っておりました。この頃から在地経理に専念する様になり、在京から戻ってきます。おそらくこの頃西尾城の前身、西条城が建てられではないかと予想しております。

 10代が義元、この人は9代義信より先に亡くなったと記録がありあまり資料的に残っておりません。11代が義尭、1519年に元服したと記録があります。この頃から1540年位にかけ、近江の織田が三河に進出をしてきます。義尭は今川義元の姉、今川氏親の娘を正室に迎えています。その頃は今川氏と友好的であった様です。徐々に織田氏が攻めて来て、12代義郷が1540年(天文9年)に亡くなっております。

 この頃安城城が織田にとられておりますので、織田氏と戦って亡くなったのかなと思っております。13代は義安、この頃になると今川氏が三河に進出してきて、織田と手を結ぶ事になります。1549年、1555年の2回に渡り今川と戦いを起こしています。完膚無きままに負けます。そして今川のお膝元、薮田に幽閉されます。その後継いだのが14代義昭、西条城は今川にとられており、当時は東条城にあてがわれ、今川の統制下に置かれていました。

 最終的に吉良氏は永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで急成長してきた松平元康(徳川家康)によって滅ぼされました。その後幽閉されていた義安の子、義定は徳川家康と従兄弟筋になります。元々吉良氏は家格が高いので後に徳川家康に儀礼典礼を司る高家という役目を与えられます。

 2代義弥から高家が始まります。3代義冬、4代が忠臣蔵で有名な吉良上野介義央、5代義周は孫になります。義央の長男は米沢の上杉家にやって自分は跡取りが無くなってしまったので、息子の二男、義周を養子に迎えました。赤穂事件で討ち入りの為に義央は首を取られたのですが、仕方不届きという理由、隠居の義央を守れなかったという強引な喧嘩両成敗をあてがわれ、諏訪に幽閉され3年後、21歳の若さで死んでこの名門、三河吉良氏の血統は断絶になりました。

 参考迄に吉良荘の地図を付けさせて頂きました。中世、鎌倉から室町時代の吉良荘の想像図です。当時は矢作川が小焼野から一色の赤羽に抜け、ここでは弓取川とありますが、矢作川の本流がこの弓取川です。これを境に東が東条、西が西条に分かれていました。今の矢作川は慶長10年(1605年)に開拓されて作られた所で、この奥が油ヶ渕。元々は入り江だった鷲塚が重要な港だったのですが、矢作川が順路を変えられた為に浅瀬になり港としての機能をしなくなり、その代わりに重要な港となったのが平坂です。

 吉良氏は足利将軍家を継げる家柄でした。吉良氏は室町幕府では御一家と言われ、吉良氏・渋川氏・石橋氏の三家が呼ばれていました。江戸時代の徳川幕府の御三家の様な間柄だったと思います。
 
 吉良荘の区域ですが、中世、鎌倉、室町時代の区域は解っていません。海岸部は殆ど江戸時代以降の開拓地ですので、どの様な区域だったか正直解っていません。これは荘園資料といって大正8年に刊行された物です。おそらく江戸末期から明治にかけて吉良という区域は今の合併後の西尾市の町村と同じであったと思います。ただ、米津、南中根は碧海郡の明治村でしたので吉良ではなかった。

 注目したいのは逆川、上六栗、下六栗、野場、桐山、永野この辺は旧豊坂村で、今は額田郡幸田町ですが、昭和29年迄は幡豆郡でした。おそらく吉良だったのかなと思います。時代によっては大浜も吉良だった様です。吉良は今の西尾が一つになって吉良氏を盛り上げてきたんだと思います。

 承久の乱(1221年)から6年後の2021年は吉良氏誕生800年を迎えようとしております。何とか皆様方と、西尾の皆様方と一つになってこのイベントを盛り上げたいと思っております。また第2回吉良サミットが12月13日(日)、徳川18代御宗家、上杉17代当主上杉邦憲さん、この方は吉良上野介の血が脈々と伝わっている人物です。また東京大学の山本博文先生も参加されます。一大イベントです。皆さんと共に盛り上げていく事をお願い致しまして話を終りたいと思います。本日はどうもありがとうございました。

各委員会報告

司会:柴川会場環境委員長 会長挨拶:磯貝会長 幹事報告:三浦幹事
出席報告:斎藤出席委員 スマイル報告:鈴木委員長 ビジター:山﨑秀夫君(西尾R.C.)

詳細はホームページをご覧下さい。 [http://kirara-rc.jp/kaihou.php]