第1186回 通常例会  テーマ「共に学び、共に育つ」

開催日時 2016年8月26日 金曜日
開催場所 西尾信用金庫中央支店2階
合唱曲 R-O-T-A-R-Y
卓話者西尾市教育長 尾崎智(さとし)氏
ビジターなし
お客様
司会進行杉浦正昭君

会長挨拶

 
 あの感動と睡眠不足を与えてくれた17日間の夏季オリンピック・リオデジャネイロ大会が終了した。皆様もそれぞれの方法で堪能されたと思います。私も夏季オリンピックと岡崎市の地方選挙が重なりオリンピックを気楽にTVで見ることもここ30年間出来なかった。久方ぶりのオリンピックTV観戦は楽しかった。堪能しました。

 さて、次は東京大会です。あの招致合戦に勝ち抜いた感動を今思い出します。1988年の名古屋大会の招致はソウルに敗れ、その後名古屋市では悲惨な事件も起きました。あの時はIOC委員会に過剰な接待が問題となりました。オリンピック開催に伴う問題として云われているのは、莫大な開催費とボランティアの無償の労働です。東京オリンピックは招致申し出のとき開催費用は3,000億円でした。

 しかし現在は2兆円を超えると云われています。当初の6.7倍です。夏季オリンピックの当初予算と結果対比が日刊紙に掲載されていたが、リオ1.51倍、ロンドン1.76倍、北京1.02倍、アテネ1.49倍 程度でモントリオール8.20倍が特例であると載っていました。 使用後活用が出来る施設作りが肝要とも思います。いずれにしても開催に伴う経済効果は開催運営手法により大きくわかれると思いますが、開催に伴う直接収入は放映権、スポンサー料、チケット等で約4,500億円と云われています。

 東京大会の成功は何かと云えば「 オリンピックの目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨することを視野に入れ、あらゆる場で調和のとれた人間の発達にスポーツを役立てることにある 」を忘れてはならない。


出席報告
会員総数 出席免除者 本日の出席会員数 MU数 本日の出席率(%) 修正出席率(%)
57   42   84.00 100

スマイル委員会報告

【中根勝美会長】
 60年ぶりに改正された教育委員会制度によりご就任されました、文字通りの新教育長の尾崎様ご多忙の中に本日は私たちの例会の卓話にお越しいただきありがとうございました。本日はよろしくお願いします。

【細川和好幹事】
 西尾市教育長、尾崎智(さとし)様、卓話を拝聴できること嬉しく存じます。子供たちは最後の追い込みですね。
(KIRARA俳句)
  駆け回る 子供は何処 処暑の昼

【細川和好幹事】
 前回、急な欠席で幹事報告と理事会報告を髙須副幹事にお願いしました。窮地を助けていただきありがとうございます。
(KIRARA俳句)
 黒星を 仲間にわびる 残暑かな

【二宮誠二君】
今夏、我が社の創業70周年を向かえ、新本社の落成をすることが出来ました。これもひとえに、お客様仕入様そして社員と地域社会の皆様のおかげと感謝しております。今後100周年を目標に精進してまいります。

【磯貝総一朗君】
 尾崎教育長25周年式典ではお世話になりました。今日は、教育のお話よろしくお願いします。

【鈴木善和君】
 尾崎教育長が一色中学の校長の頃より存じ上げてる素晴らしい方です。
ちなみに、教育長のゴルフの腕前はシングル級です。一度ご指導をお願いします。
本日の卓話宜しくお願いします。

【岩瀬清彦君】
 教育長尾崎様、卓話を引き受けて頂き有難うございました。楽しいお話を期待しています。

【堀田義之君】
(天の声:リオ五輪の短歌)
 近ごろは 五輪のメダルにこだわりて クーベルタンの言葉むなしい

卓話

テーマ「共に学び、共に育つ」 (西尾市教育長 尾崎 智(さとし)氏)


講師紹介:岩瀬P委員長

尾崎教育長(1)

尾崎教育長(2)
 みなさんこんにちは。まずもって25周年記念の中学生、小笠原派遣事業につきましては本当にありがとうございました。発表会に出させて頂き、子供達の自信を持った顔つきに大変感激をしました。今日、私帰りましてすぐに市がシンガポール・マレーシアに派遣する事業を行っておりますが、その子達が一昨日帰国をし、今日発表会があるという事できっとその子達も小笠原に出かけた子達と同じような感激で報告をしてくれるのではないかと思っております。若いうちに、感受性の高いうちに 外で学んでくる事は本当に大事な事だと思っております。またこういう機会がありましたら是非御支援をよろしくお願いします。

 中学生の頑張りの中で、共同の川柳の中に「黒星を仲間に詫びる残暑かな」という句が出てきました。その俳句を聞き、中学校の大会は色々頑張ってくれ、今年は全国で出た子も数人おり、団体ではなかなか出にくいのですが吉良中学校の野球部が県大会、東海大会と勝ち進み、ベスト4まで進みました。あと一つ勝つと全国大会というところで残念ながら負けてしまいました。先程の句を聞きながらそんな情景を思い浮かべ、本当によく頑張ってくれる子供達に色々な機会を与えたいと思います。

 ご紹介の中でもありましたが、私自身は生まれは一色町の漁師町でえびせんべい屋をやっておりました。教員として昨年まで42年務めることが出来ましたので、私自身を育ててくれた、私が学ばせて頂いた時代の事を話させて頂きます。

 特に私を育ててくれたのは私が35歳になった時、初めて特別支援学校に勤務することになり7年間お世話になりました。実はそれまで障害を持った子供達の教育については全く無知で、異動の時期に校長から養護学校へ行く内容を受けた時は正直、本当に誰かが代わりに行ってくれれば嬉しいという気持ちがありました。しかしここでの7年間が私を成長させてくれた場でもあり、その時の色々な人との出会いや教えが今日に繋がっていると思い、本当に貴重な体験をさせて頂きました。

 当時、障害を持つ子供が通う学校は養護学校という呼び名でした。今では特別支援教育でありますが、この特別支援教育の歴史について少しお話をさせて頂きます。この様な学校ができたのは学校制度ができ、国が障害を持つ子の学校を作りなさいという前、明治時期ではありますが特殊化方、目の見えない子や耳の聞こえない子等が通う塾を作り、その子達が将来、生活が出来ていく様にという教えで始まりました。実際に障害を持った子の学校が作られるようになったのは大正から昭和にかけて、大正12年に国が学校の制度として全国に盲学校・聾学校を作るように義務化し、大正末期から昭和の初めにかけて特別支援教育の理解が少しずつ出てきました。

 今回、西尾市にも特別支援学校を作ろうと県の方にお願いをし進んでおりますが、作ろうとしている学校は盲聾ではなく知的障害のある子供の特別支援学校を作ろうという事です。知的障害や肢体不自由の障害を持っている子の学校はなかなかできなく、国がそういう学校をつくりなさいと言ったのは戦前、昭和16年の時です。昭和16年に法律が出来上がり、一部の県で学校が作られてきましたが、すぐ戦争に入ってしまい、結局全国に広がらないまま実質的な運用はなされないまま終ってしまいました。

 今私達がやっている教育制度は、昭和22年の戦後に新しい学制制度が作られ、小・中の義務教育9年間その上に高等学校、その上に大学という一本の流れで作られてきました。この時に盲・聾・養護学校の就学についても義務化をされました。法律の中で義務化したといえどもしばらくの間、障害のある子は就学しなくても良いという免除規定が付き、学校に行かせて勉強させる事がないまま過ぎていました。愛知県だけでなく全国的になかなか作られる機会はありませんでした。盲学校と養護学校は比較的早く作られ、就学義務も進んでいったのですが、知的障害の学校についてはなかなか進んでいかない状況でした。

 私が勤める事になった岡崎にある愛知教育大学付属養護学校は知的障害の学校です。この学校が作られたのが昭和42年です。全国的にも昭和42年頃に作られたのが最初で、愛知県では春日井市に県立で一校を作られました。これがなかなか他に広がっていいかず、全国的にモデルになるようなニュアンスで作られました。丁度この頃、設立に準備をして頂いたのは名倉洋一先生が県の指導主事でお勤めの頃に制度が作られ、愛知県も出来てきました。
 
 知的障害の子達も必ず学校に通わせなければならないと免除規定が外されたのは、1979年、昭和54年で比較的新しい事で、これ以前はそういう子供がいても家で面倒を見るという状況がありました。昭和54年と言いますと、安城に特別支援学校がありますが、ここは昭和53年の開校で法律が昭和54年にきちんと作られるという事を見据え、この頃愛知県も沢山養護学校を作りました。遅れて10年後にこの様な子供たちの学校が作られ、そういう子たちの教育の必要性が認知され、特別支援学校の重要性が分かってきたという事です。

 私も昭和62年の赴任ですので、昭和54年の義務化から8年後、まだまだ障害児教育についての世間の一般的な理解が不足をしている時期でした。時々電車で岡崎まで通うと安城養護学校の生徒達も電車通学で一緒に電車に乗っていました。やはりそういう子供達ですので、電車の中で自分の席にずっと座ったり奇声を発したりします。すると一般の方達もそういう子達が近づいてくると別の車両へ移ったりする等、まだまだ世間一般としては子供達への理解不足がありました。また親御さん達も認知をされていない中で子供達を通わせるという不安定さ、将来の生活面の不安定さ等があり、親御さん達も厳しい状況の中で学校へ通わせている時代でした。

 その附属養護学校は自閉症と言われる情緒障害が約半分、ダウン症や脳性麻痺障害を持っている子が2割、残りの3割が知的な遅れを持った子という状況でした。今は地元の小・中学校の中で特別支援学級があり、程度の軽い子達はそこで教育がされておりますので養護学校へ行く子達は今ではかなり重度化しています。同じ自閉症児の中でもかなり重度化している子供達で、その子たちへの教育が難しい時代となっております。私が勤めていた所は大学の付属の研究校でしたので、かなり重い子や程度の軽い子、色んな子達の入学を許可してやっておりました。私の時代にもかなり重い自閉症の子もいました。

 当時、私が授業をやろうとした時、この子達への授業が全然出来ない状況でした。普通学校で十数年経験しておりましたので、若手教員に指導する立場でしたが、養護学校に行ったら全く授業も作れず困ってしまう日々でした。特に最初授業は何もやらないまま1時間授業が終わってしまうという事もありました。10人の子供達を集めて体育の授業をするのですが、その中に特に重い自閉症の子供が二人おり、私が手を繋いで運動場へ連れて行き並ばせようとすると一人の子がいなくなってしまう。学校中探しまくり連れてくるともう一人がいなくなる。また探しているともう一人がいなくなる。二人を探しまくっていたら授業が終わってしまったというそんな様子でした。

 二人とも言葉を話すことが出来ず、私の指示も理解が出来ない子でした。二人を見ていると、私のような新米の教員を困らせてやろうかと、わざと連携しているのではないかという部分も感じられました。新米の私をどう学ばせるか、教師なら考えろと教えてくれた2人でした。こうした言葉のない指示理解の出来ない子をどうやって授業していくのか色々考えました。この子達がどんなことに興味を持っていて、どんな動きをするのかを四六時中観察しました。A君は自閉でいつも小石を拾っては同じ所をめがけて投げる。ずっと投げている。

 もう一人のB君は動くものを見つけると追っかけていく事をいつもやっていました。この二人の動きを見て、ベニヤ板に2m位の高さに穴を空け、A君の興味のある絵を書き、そこにボールを投げさせる活動を考えました。そこにボールが上手く入ると鈴が鳴る。そうするとボールを何回でも投げてくれます。ベニヤ板の裏側にレーンを付け、そのボールが穴を通ると反対側に転がる装置を作りました。B君はボールが転がってくると追いかけて行き、レーンの入り口で流しそうめんを受けるようにボールを受ける。

 そこで投げるA君は投げる距離を長くし、1時間ずっと投げる活動を。B君は落ちてくるボールが走って取りに行く活動で、負荷を与える為にレーンを二股や三股にし、サイドステップをして受ける活動をしていきました。そうすると1時間何も言わなくてもこの活動を続けていました。二人で普通のキャッチボールをすると一回ボールを投げただけで飽きてどこかに逃げてしまうのですが、このゲームでボールを投げたり受けたりとする活動は一生懸命やっており、こういう活動を通し、この子達の授業はこうして作っていくんだということが分かりました。この2人のおかげで授業作りというのが見える様になりました。

 養護学校の授業は教科書があってそのページ順通りに進める事は殆ど出来ません。そうは言っても一般の学校と同じ様に国語や社会、体育、理科という教科はあるのですが、そういう時間の授業数を減らしてこういう子達の将来に役立つために生活単元学習、作業学習に振り返えてもいい事になっています。生活単元学習では買い物学習をしたり、切符を買って電車に乗る勉強等をしていきます。

 作業学習は将来の就職を見据えて製品作りを実際にやっていきます。私がいた頃はセメントを練りコンクリートブロックを作り、そのコンクリートブロックの値段をカーマよりも安くして買って頂き、各小学校の花壇に使って頂いたり、焼き物を作ったり織機で玄関マットを作ったりし、バザーで売ってそのお金で材料を買うという事を繰り返しやっていました。作業を通して製品を作る事よりも根気強さを養ったり人とのコミュニケーションを取れるようにしたりという目的で作業学習を進めています。

 この中で社会性を身につけ、将来に向けて働くという力をつけていく。作業学習に限らずどんな授業でも将来に向けて働く力をつけようという事を主眼に行っています。この養護学校の中で本当に大変だったのは、この子達の卒業後の進路でした。高等部3年生、当時1学級15人位の子供達がいましたが、当時はまだ就職が出来るという状況でしたので、なんとかこの15人の子を一般企業に全員就職させたいという願いで高等部3年生の担任が一生懸命頑張るのですが、その子の通える範囲で色々な企業回りをし、働かせてもらえるように飛び込みのセールスマンのように回っていました。

 少しでも良い話があると1週間位職場体験をさせて頂き、担任も一緒になって仕事をします。なかなか一発では決まらず、ご承知の通り障害者を雇用しなければいけない法律がありますが、現在一般企業の2%、当時1.5%位でしたがそういう法律があってもなかなか法律通りにはいきませんでした。それでも担任の熱意と経営者の御理解があり当時は何とか全員就職が出来ていました。今は障害の程度も重くなり、正規の就職はなかなか難しく、作業所や訓練施設等に通う子が殆どになりました。

 将来の自立を見据え、給料の頂ける所に就職ができないかと強く願う訳です。就職口を探す事ともう一つ大事にしてきた事が、この子達が就職した後に既に就職している所に学校職員が訪問し、子供の様子を毎年、毎年見させて頂く。最低3~5年間位は就職した所に様子を見に行く事を私達の仕事としていました。

 事業主の方々とお話をする中で嬉しかった事は、安城にあるエルビーに就職した子がいるのですが、その子の仕事はラインから製品が流れてくると、そこの製品を取って手提げ袋に10本詰め込む仕事を担当していました。その子も自閉で、1日中その仕事をしているのですが、一緒に働いているパートの方々はお喋りをしているので時々間違えてしまうそうですが、この子は感覚的に10本が分かっており、他人の間違いに気付く事ができます。

 そこの班長さんが、この子が来てくれたおかげで製品に 間違いが無くなったという大変ありがたいお言葉を頂きました。この子自身の仕事は皆の7割位しかスピードは進まないのですが、全く休まず仕事をこなすので一週間通してみるとこの子は良く仕事が出来て本当にありがたいという言葉を頂くとこちらもやる気になり頑張ろうという気持ちになりました。社長さん自身の御理解があっても一緒に働く現場の主任さんやパートの人達と上手くやっていかないとこの子達は長続きがしません。これが就職させる時の難しさだと感じます。

 鉄工所に勤めた子の話ですが、主任さんにとても可愛がって頂き、自閉症でこだわりの強い子で、綺麗に片付いてないと自分として許せない子でした。鉄工所の機械操作は一人では出来ないのですが、仕事が終わった後の片付けはこの子は完璧で、ゴミ拾いやくず鉄の片付け等本当にきちんとやり、それぞれの人が自分の機械の周りを片付けるのですが、その掃除が上手くいってないと、その子が寄って行って綺麗に片付けてしまう。

 なので本当にみんなの片付けが綺麗になってありがたいと言って頂き、工場全体が綺麗になって貴重な戦力だと言って下さいました。またこの子は挨拶をきちんとする子で、おはようございます。さようならと言って返事をくれないとその人のそばに寄り、返事をくれるまで失礼しますと言い続けるので、職場の皆がきちんと挨拶をするようになったと、主任さんは私が口を酸っぱくして何回も言っても全然聞いてくれないが、この子が来てくれて挨拶ができる職場になった。仕事そのものは難しいのですがそういう雰囲気を作ってくる子供達を送り出すという事が生き甲斐でありましたし、そういう話を聞く事が楽しみでした。本当にそういう子達から学ぶことばかりの7年間でした。

 もう一つ学ばせて頂いたのは、この附属養護学校で出会った保護者の方々からです。先程のボール運動のA君のお母さんですが、将来の自立に向けて一人通学が出来る様に、一人で電車に乗り、お母さんが違う車両で見ている事を繰り返し一人で通学できるようにして行くのですが、丁度私が出張の時に東岡崎の駅で時そのお母さんが階段の下でうずくまって何かを見ているのです。

 そのホームで自分の息子が線路に向かって唾を吐いており、それを見かけた一般の方が注意をしているのですが言葉の理解が出来ないのでぽかんとしていてますます怒って頭を叩いている状態でした。私が慌てて止めに入ろうとすると私の手を掴み、これは社会に出て行く勉強ですからと止めるのです。じっと見守る母親の姿に教師の間隔とは違った姿を勉強させて頂きました。

 もう一人、西尾から通っている子がおり、中学部から附属養護に来た子ですが、その子も一人通学が出来ないので自宅から車で駅までお父さんが送り、お母さんは駅で電車に乗れるか見守ります。無事に電車に乗るのを見届けるとお母さんは急いで東岡崎の駅まで車で走って行きます。お父さんは子供を降ろすと新安城まで走って行き、新安城で乗り換えが上手くできるかを見届ける。

 お母さんは東岡崎でバスに上手く乗ることが出来るかを見届ける。夫婦で一生懸命子供の自立を助けるご夫婦もみえました。お父さんはそういう事で会社に遅刻してしまう事がしょっちゅうでしたので土日も会社に出て行き、その子を連れて行き、障害を持っている子を社会に出すという事を皆に見てもらうという事から始め、その後なんとか就職出来るように 頑張ってみえるお父さんお母さん達の姿から勉強させて頂きました。

 小学校2年生を担任した時に、言葉も全くない子で、その子が1週間に1回位便を失敗するので、その子のパンツを洗いながらお母さんと話をする中で、言葉の無い子でも便がその時によって違う訳です。今日はちょっと柔らかかったな。後で考えると水泳があったから、プールに入りたくなかったんだなということがなんとなく分かってきます。言葉のない子中でもその様な声が聞こえるという事が少しずつ分かってくるようになりました。

 そのお母さんも自分の子に障害があるということで、他の兄弟が慈悲深く、良い子供に育ちましたと言ってくれます。障害のある子達は福を運んでくれる子供達だと感じました。後に親御さんが初めての給与明細を持って来て、「先生、税金が引かれております」と言いました。始めはこんな安い給料で税金を引いてと怒っているのかと思っていたのですがそうではなく、税金を引かれているという事は社会の一員として認められているという事で、こんな嬉しい事はないと思い給与明細を持ってきましたと言うお母さん方も沢山美みえました。

 また正直この子を殺してしまおうと思ったことが3回ありますと訴えてくれるお母さんもみえました。生まれて医者から障害があると言われてとてもショックで、なぜ自分がこんな子を産んでしまったんだと思い、殺してしまおうと思ったのが最初です。幼稚園に入り他の子と比べると不憫で不憫でしょうがない。その時もこの子を殺してしまおうと思った。3回目は中学校を卒業する時に私たちの方が絶対早く死ぬのだからこの子が社会で一人で生きていく事が出来るんだろうか、心配で心配で初めは自分の身勝手な思いから殺してしまおうと思っていたが、将来の事を考えるとそういう気持ちになった事もありますと言われました。

 普通の高等学校ならテストが悪ければ落第なので、この学校にも落第制度を作って下さい。そうすればずっと学校にいられるじゃないですかという事を言われる保護者もいました。色々な事が本音で親御さんと話が出来るようになり、私も学ばせて頂きました。最後にこの子が小学校へ上がる少し前、名鉄電車の線路に二人してうずくまりました。真っ暗な中、この子を抱いてじっと息をひそめるとだんだん電車が近づいてくる音が大きくなる。この子は私に抱かれて嬉しくてたまらない顔をしている。

 踏切の警報が鳴り出し目をつむる。最後の瞬間自分は何をしているんだと我に返り、線路から横に転げ落ちました。そんな告白を受けました。そんな人生を送っている人達です。私達が言う生徒の愛情や一人一人を生かすという言葉は何と薄っぺらな物かという事をこのお母さん達の告白から感じました。今でも名鉄電車に乗りそこを通る度に、このお母さんの事を思い出します。

 是非、特別支援教育への御理解と共に学び共に育つと言う事を、今日お集まりの皆様方もこういう子供達やお父さんお母さん方に御理解・御支援を頂けるとありがたいと思います。今日は大変貴重な時間を頂きありがとうございました 。

各委員会報告

幹事報告:細川幹事
出席報告:青山出席委員
スマイル報告:堀田S委員長
RYLAセミナー案内:太高青少年委員長
ゴルフ部案内:西冨ゴルフ部長

細川幹事 青山出席委員 堀田スマイル委員長
太高青少年委員長 西冨ゴルフ部長

詳細はホームページをご覧下さい。 [http://kirara-rc.jp/kaihou.php]